コンテンツにスキップ

アーダルベルト・フォン・バイエルン (1886-1970)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アーダルベルト・フォン・バイエルン
Adalbert von Bayern
ヴィッテルスバッハ家
1916年

全名
出生 (1886-06-03) 1886年6月3日
ドイツの旗 ドイツ帝国
バイエルン王国の旗 バイエルン王国ミュンヘンニンフェンブルク宮殿
死去 (1970-12-29) 1970年12月29日(84歳没)
西ドイツの旗 西ドイツミュンヘン
埋葬 西ドイツの旗 西ドイツ、アンデクス、アンデクス修道院
配偶者 アウグステ・フォン・ゼーフリート・アウフ・ブッテンハイム
子女 コンスタンティン
アレクサンダー
父親 ルートヴィヒ・フェルディナント・フォン・バイエルン
母親 マリア・デ・ラ・パス・デ・ボルボン
役職スペインドイツ大使(1952年 - 1956年)
宗教 キリスト教カトリック教会
テンプレートを表示

アーダルベルト・フォン・バイエルンAdalbert von Bayern, 1886年6月3日 - 1970年12月29日)は、バイエルン王国の王族、バイエルン王子(Prinz von Bayern)。歴史家、作家、外交官。

生涯

[編集]

バイエルン王子ルートヴィヒ・フェルディナントと、その妻でスペイン女王イサベル2世の娘であるマリア・デ・ラ・パスの次男として、ミュンヘンニンフェンブルク宮殿で生まれた。アビトゥーア資格を取得後、バイエルン軍に入隊して第一次世界大戦終結まで従軍した。彼は砲兵中隊長として砲兵部に勤務し、のちにドイツ参謀本部に移り、騎兵将校として東西の戦線に赴いた。

ドイツが1918年に敗北すると、退役してミュンヘン大学で歴史を研究するようになり、バイエルンおよびバイエルン王家の歴史に関するいくつかの史書を著した。第二次世界大戦が始まると、軍隊に呼び戻され、家族ぐるみで友人付き合いをしていたヴィルヘルム・フォン・レープの参謀将校となった。フランス侵攻にも参加したが、軍隊への復帰は短い間であった。1941年の年明け、いわゆる王族兵役免除措置 (enによってアーダルベルトを含むドイツの旧王族男子全員が、ドイツ国防軍への参加を禁止されるか、その時に就いていた全ての軍務を解除されたのである。アーダルベルトは南バイエルンにある一族の居城ホーエンシュヴァンガウ城に引きこもり、大戦が終わるまで暮らした。

第二次大戦後、短期間ながらバイエルン赤十字社に務め、さらに1952年コンラート・アデナウアー政権によって在スペインドイツ大使に任命され、1956年まで同職にあった。この時期、義理の従妹で長年資産運用を任せていたヨゼフィーネ・フォン・ヴルブナ=カウニッツ伯爵夫人の不法取引をめぐる金融スキャンダルに巻き込まれた。

1970年12月29日にミュンヘンで亡くなり、アンデクス修道院 (enに埋葬された。

結婚と子女

[編集]
アーダルベルトとアウグステ(1919年)

1919年6月12日、アーダルベルトはザルツブルクにおいて同族の又従姉エリーザベト・マリー王女とその夫ゼーフリート・アウフ・ブッテンハイム伯爵オットーの間の娘アウグステと結婚し、2人の息子をもうけた。

  • コンスタンティン(1920年 - 1969年)- 1942年ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯女マリア・アーデルグンデと結婚、1953年ケーフェンフューラー=メッチュ伯爵夫人ヘーラと再婚
  • アレクサンダー(1923年 - 2001年)

系譜

[編集]

外部リンク

[編集]

ウィキメディア・コモンズには、アーダルベルト・フォン・バイエルンに関するカテゴリがあります。